あの日から27年
当時すぐに東京から駆けつけてくださった全障研(全国障害者問題研究会)の園部さんのアーカイブを紹介します。
忘れない。


<アーカイブ>
阪神淡路大震災と障害者ネット
(『パソコンボランティア』日本評論社より)
ささざまなおもいと支えあいたいのねがいがありました
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 「ワゴン車4台で紙オムツの入った段ボール50箱をもらい、夜8時、私の学校の玄関先でワゴン車1台分の10数箱を、市内の垂水養護学校の先生に渡しました。本当は直接届けたいのですが、交通規制で許可車以外神戸市内に入れないのです」。

 1995年1月17日、「兵庫県南部地震」が発生した。阪神淡路大震災である。

 「ねがいネット」に関連するメッセージが寄せられたのは午後1時33分からである。阪神地域の全障研会員や友人たちのことを思い、テレビ放送にかじりついていた私が、こうした緊急時の放送には手話と字幕が絶対に必要だと、怒りとともに書き込んでいる。台風によるりんご被害を体験した青森の「りんごっ子」さんは、そのときの全国からの支援に恩返しするためにと激励のメッセージやりんごジュースなどを寄せてくれた。親類の安否確認のため車で現地入りしたMIKIさんは、パソコン通信上でしか知らない東京の幹子さんの親類の安否も確認してくれている。

 全障研全国事務局は、こうしたネット上の現地からの声や共作連(共同作業所全国連絡会)などの障害者支援センター、兵庫障害者協議会、教職員組合などからの速報やチラシ、各地の支援運動の様子をもとに、毎日「FAXニュース」を発行し、22号を数えた。速報やチラシの入力は、埼玉の主婦が「入力ボランティア」を申し出てくれて、その日のうちにネットに掲載された。そうした情報に接した東京や弘前、神奈川や高知でも支援活動が生まれ、ネット上の電子文字は、印刷され、FAXやチラシや職場ニュースとなって、多くの人の手から手へと広がっていったのである。

 翌日から救援活動の様子をネットに発信していた、いなみ野養護学校(兵庫県加古郡)に勤務する市位辰三さんは、「肢体不自由の養護学校で紙オムツが足りない」とのSOSを見て、支援活動に着手した。

 ねがいネットに転載された「オムツが足りない」のメッセージは、大手パソコン通信が発信元で、その夜のうちに各地のさまざまなパソコン通信に転載につぐ転載が繰り返された。そして、翌日には市位さんはじめ、全国8か所から、じつに1000枚を越える紙オムツが神戸に送られたのである。

 「助けて!」、「紙オムツが足りない!」というごくごく小さな声が、情報が、電子ネットワークによって人と人とをつなぎ、巨大なパワーを発揮させたのである。
 その年2月5日の東京は朝から雪だった。前夜まで数日、神戸、芦屋、西宮と駆け足で回り、支援活動の連絡調整をしてきた私も、池袋駅東口での支援街頭募金行動に参加した。10団体約30名の障害者団体の仲間たちが街頭に立ったが、嬉しかったのは「パソコン通信でこの行動があるのを知りました」「ネットを見ていると、なにか私も手伝いたいと」と数名が参加してくれたことだった。